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東京高等裁判所 昭和36年(ツ)39号 判決

上告人 原告・控訴人 新井治三郎

訴訟代理人 岡田久恵

被上告人 被告・被控訴人 森新金融株式会社

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告理由は末尾添付の上告理由書記載のとおりである。

第一点について

民法第七百六十一条は、夫婦の一方が日常の家事に関し第三者と法律行為をしたときは、他の一方はこれによつて生じた債務につき連帯してその責に任ずる旨規定し、直接には夫婦の一方のなした法律行為の効果について規定するのみであるけれども同条にいわゆる第三者との法律行為中には夫名義の財産を妻が処分したような場合も含まれることを考えれば右規定は単に夫婦の他の一方に責任あることだけを定めたものでなく、同時にその連帯責任の生ずべき前提として、夫婦相互に日常の家事に関し自己の法律行為の効果を他の一方に及ぼし得る権限をもつことをも間接に規定しているものと解するのが相当である。しかして右の権限は厳密にいえば民法の代理権と異る面をもたないわけではないが、そのことから表見法理の適用を否定すべきものとも考え難く、また旧法第八百四条のように直接に日常家事の代理権について規定していないことから、夫婦相互間に代理関係が生じないものとしひいては表見法理の適用を否定すべしとの結論を導くのは妥当でない。

もつとも昭和二十二年法律第二百二十二号による民法改正の前後において、夫婦関係を規律する法は旧法と著しく趣旨を異にするに至つたものであるが、前示の権限に関する限り新法においてもその趣旨は受け継がれているのだから、現行法の下において夫婦の財産的独立の尊重されなければならないことは所論のとおりであるけれども、日常家事の範囲において夫婦の一方がその共同生活の維持のためになした法律行為に基く債務は夫婦共同の債務たる実質をもつものというべく、この範囲において夫婦が相互に他を代理する権限をもつと解することが新法の精神に反するとは考え難い。もつとも所論の新法の精神殊に夫婦の財産的独立の尊重という点は表見法理を適用するにあたり考慮して然るべきことであり、また日常家事に関する前記権限の範囲は一応抽象的に定まつており、第三者に公知せしめられているともいい得るのであるから、第三者において日常家事の範囲に属すると信ずるにつき正当の理由のあるときに限り右権限を基礎にして表見法理を適用するのが、当事者の利益の調和からも前記新法の趣旨からしても相当であると解される。右のように解するときは、表見代理の規定の適用の範囲につき原審と異る点がない訳ではないがそれにもかかわらず本件においても表見代理の法理に従うべきものとする結論において原審と異るものでないことは第二点に述べるとおりであり従つて右表見代理の規定の適用の範囲に関する見解の相違は判決の結果に影響を及ぼすことがないから所論は採用しがたい。

第二点について。

原判決の確定した事実によれば、本件消費貸借の額は金三万円であり、また被上告会社の専務取締役新井三郎は上告人の妻新井キヨから本件金員借用の申込を受けた翌日上告人方に調査に赴きその際キヨは新井三郎に対し右金員は家屋新築のための費用の一部にあてられるもので夫も承知している旨述べ夫の依頼により取つて来たという印鑑証明書と実印を差出したので被上告人の代理人新井三郎はキヨが上告人から右消費貸借につき代理権を授与されていたと信じたというのである。原審は右調査における経緯のほか右のような比較的少額の金員の借用につき同居の妻が夫から代理権を授与されることは屡々あり得ることをも考慮し被上告人において本件消費貸借につき右キヨに上告人を代理する権限があつたと信ずべき正当の理由があるとしたのであり、右判断は是認することができる。また前記原審認定の事実によれば、右キヨの新井三郎に告げた借入金の使途は上告人夫婦が家屋を新築するためのものというのであるけれどもそれは既に夫婦協議の上夫婦共同生活の必要上決定されたもので、本件の三万円は右建築の費用の一部を補うためのものであるとの趣旨が窺われるのであるから、右キヨの説明を受けた新井三郎において本件金員借入が日常家事の範囲に属するものと信ずべき正当の理由も存したと解することができ、民法第百十条の適用につき第一点に説示した制限を付しても、なお原審が同条を適用したことはこれを是認すべきものと考えられる。上告人がさして収入の多くない公務員であること、被上告人が上告人宅を訪れただけで、その勤務先において上告人本人に直接確かめる方法をとらなかつたことその他所論の点は本件において右の結論を左右するに足らず、論旨引用の判例は必ずしも本件に適切ではない。

よつて本件上告は理由がないから、民事訴訟法第四百一条、第九十五条、第八十九条の各規定に則り主文のとおり判決した。

(裁判長判事 梶村敏樹 判事 室伏壮一郎 判事 安岡満彦)

上告理由書

第一点原審裁判所は本件消費貸借について上告人の妻たる訴外新井キヨが、ほしいままに上告人及原審被控訴人新井君枝の印鑑を盗用して乙第一、同第三及び同第四号証を作成したものであること及上告人等は本件消費貸借には全く関知しなかつたものであつて、結局訴外新井キヨが上告人の代理人であるということは認められないとし、且つ右訴外新井キヨの本件消費貸借契約締結は上告人との関係にあつては妻としての日常の家事の範囲を逸脱したもので民法第七六一条によつては上告人に右新井キヨのなした本件消費貸借について連帯責任を負わせることはできないものとし、民法第七六一条に規定する夫婦の一方の日常の家事に関する法律行為をもつて他の一方の代理権に基く行為であると解して、これを表見代理の基本代理権として、被上告人が前記新井キヨの本件消費貸借について上告人の代理権を有していたと信ずべき正当の理由があつたものとして、上告人において本件消費貸借について責に任ずべきものと断定したのであるが、民法第七六一条は、夫婦財産制に関して夫婦生活につき相互独立平等の理念と夫婦共同体の現実を基調として日常の家事に関する限り夫婦の一方の行為に因つて生じた債務は当然他方の連帯責任とすることを定めたもので、旧民法第八〇四条の如く夫の代理権を擬制したものでないから、立法精神からも文理解釈からも代理権は存在しないものと解すべきである、すなわち民法第七六一条は日常の家事に関しその責任が夫婦の連帯責任にあることを法定したにとどまり、夫婦が相互に他方の代理人たる地位に立つことまでも定めたものと見るべきでない、従つて民法第七六一条による代理権の存在を前提として右表見代理の主張を容れた原審判決は法律の適用を誤つた違法があるものといわなければならない。

第二点仮りに民法第七六一条は夫婦の一方が日常の家事に関して第三者と法律行為を為すについて他の一方の代理権を有するものと解釈できるとしても、原審判決においては前記訴外新井キヨが本件消費貸借を為すについて上告人の代理権を有していたと信ずべき正当の理由を有していたと認定する理由として右訴外新井キヨから金銭借入申込みがあつた翌日被上告人会社の専務取締役新井三郎が新井宅(上告人方)へ調査に赴き、その際新井キヨは右新井三郎に対し、夫である上告人から家事一切を任され、以前に新井キヨが他から借りた(これは夫たる上告人の代理人として借りたのではなく新井キヨ自身が自己名義で他から金銭を借り入れたもの)三、四十万についても夫が支払つてくれたこともあり今回の借金は家を新築する為めのものであるから夫は承知しており夫の依頼により印鑑証明を取つて来たものである等と述べて印鑑証明書と実印を差出した態度と金額も三〇、〇〇〇円程度のものであるから調整に当つた新井三郎は代理権を授与せられたものと信ずる正当の理由があると説明しているのであるが、これは単に新井キヨだけから、而も詐欺師としての常套手段である言辞態度の巧妙さに漫然と信じたもので、これだけを根拠とし、他に特別の事情例へば新井キヨにおいて従前真実上告人の代理人として借財し公正証書作成の依嘱をしたこと等一般家事と関係のない重要事項について上告人を真実代理した事例等がない限り代理権ありと信ずべき正当の理由があるということはできない、借用金額が三〇、〇〇〇円であつても大学卒業者の就職初任給の二カ月分に相当し、上告人の様な永年勤続者にとつても一カ月分の給料に相当するもので決して軽少額とはいえないし、一般家庭ことに上告人の様な公務員生活をなす者において通常の家事の範囲を超えて金銭を借入れ公正証書作成を依嘱する如き重要事項をも夫に代つて妻に代理させる様な行為は寧ろ異例の事に属するもので、相手方としては金銭を貸与する様な場合は本人に面接して真否を確認するか、上告人が中央気象庁に公務員として勤め永年勤続者として表彰を受けたことを知悉している被上告人会社役員としては少なくとも電話ででも問合せる等代理権の存否について慎重に調査する義務を負うものというべく、唯一回上告人宅を訪れ上告人が勤務の為め不在中であつたので、単に詐欺常習者たる新井キヨに面接しただけで、慎重審査義務を怠つた結果について夫たる上告人をして責任を負わしめることはできない筋合である。なお一般夫婦生活において夫が実印を本件の様に箪笥の抽斗に保管して置いたり又は妻に保管させて置くことは常態であつて、実印さえ持参すれば当時何人でも印鑑証明書の交付を受けることが容易であつた点等を考え合せれば縦令妻が夫の実印及印鑑証明を所持していたとしても単にこの事実と前示の様な言辞だけを根拠として他に特別な事情があるものとしてでなく輙く本件消費貸借をもつて民法第一一〇条の表見代理に該当するものと断定したことは審理不尽又は理由不備の違法があるものである。(大審院昭和一一年(オ)第一九三九号、同一二年八月七日民三最高裁判所昭和二四年(オ)第一五三号、同二七年一月二九日三小。)

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